今日はちょっと硬めのお話です。
アートの知識は、作品を鑑賞するのに必要なものなのでしょうか?
それとも逆に、むしろ知識は邪魔なのでしょうか?
私は「タイミングを踏まえた上で、知識は必要」だと思っています。
では、その「タイミング」とは、一体いつなのでしょうか?
エドガー・ドガの『エトワール』を例にとって考えてみましょう。
エドガー・ドガ《エトワール》1878年
この作品において、
・一人の踊り子が画面右で踊っている。
・黒服の男が舞台袖に立っている。
・何人かの踊り子が控えている。
などと、「描かれているヒト・モノ・コトを正確にとらえる」のが、「鑑賞の第一段階」と言えるでしょう。
この段階では、「19世紀末フランスの社会状況やドガの出自」についての知識は完全に不要です。
ただ、次に
・なぜ、踊り子はここで踊っているのだろう。
・なぜ、黒服の男は舞台袖に立っているのだろう。
・なぜ、ドガはこの作品を描いたのだろう。
などと、「描かれている理由を探る」という「鑑賞の第二段階」では、
・当時のバレリーナの多くが貧しい家の出身で、舞台袖にいる男に買われていった。
・ドガは当時のパリの社会の暗部を切り取って描くことに長けていた。
という知識は、むしろ必須となります。
つまり、「何が描かれているか?」をとらえる際には不要な知識が、「なぜ描かれているか?」をとらえる際には必須になるのです。
こういう意味で、私は「タイミングを踏まえた上で、知識は必要」だと考えています。
頭でっかちにならず、かといって感覚だけでもなく、楽しくアート鑑賞したいですね。
猫とアートとスポーツカー
0コメント