「対話型鑑賞」について思うこと

昨今、流行の「対話型鑑賞」。私も参加者としてのみであるが、何回か体験したことがある。


この鑑賞法、確かにすごく斬新であるし、意義深いものであると思う。


作品の「印象」を漠然と抽象的に抱いたままにするのではなく、その「根拠」を作品自体の中から探そうというスタンスには私も大賛成だ。


そして、自身の抱いた「印象」を他者と語らい共有することで、お互いの「印象」や「解釈」が深みを増すというポジティブな効果も、体験の中で何度となく実感した。


ただ、そこで終わってしまっては、せっかくの「対話」や「鑑賞」がどうしてももったいない気がするのは私だけだろうか?


その先にもうワンステップあると、もっとこの「鑑賞法」が活きると思うのだ。


それは、「作者の意図を考える」ということだ。


「私や他者が作品をどう感じるか?」、「それは作品のどこに基づいているか?」という「対話」や「鑑賞」の先に、「なぜ作者はそれをそのように描いたのか?」という「考察」があると、より、この「鑑賞法」の意義は増すのではないだろうか?


勘のいい方はお気づきだろうが、「前の二つ」と「最後の一つ」との間には、実は決定的な違いがある。


「最後の一つ」だけ、「正解」が存在するのだ。


もちろんその「正解」は、作者にきかなければ分からない。多くの場合、「考察」は「推測」の域を出ないだろう。


それでも、私はこの「考察」に意味がないとは思わない。


「みんなで一つの正解を目指して協力し合うこと」も「みんなの意見を尊重すること」と同じくらい大切なことだと考えるからだ。


何回かの参加を通じて、私は「対話型鑑賞」の意義はとても大きいものだと感じている。


だからこそ、「もっともっとこの鑑賞を活かして楽しみたい」と私は切に願うのだ。


現実的には難しいのかもしれないが・・・。

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